1. HOME
  2. 千光寺について
  3. ▶︎松下村塾と空海塾

▶︎松下村塾と空海塾

南紀白浜温泉の千光寺は寺子屋・勉強会の「松下村塾」と「空海塾」でもあります。

松下村塾 とは?

松下村塾(しょうかそんじゅく)は、江戸時代末期(幕末)に、長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に存在した私塾で、吉田松陰が同塾で指導した短い時期の塾生の中から、幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出したことで知られます。

1842年(天保13年)に松陰の叔父、玉木文之進が八畳一間の私塾を開き松下村塾と名付け、少年だった松陰も入門しました。文之進の指導は非常に厳格なもので、松陰が授業中、顔にとまった蚊を払って殴られた話が伝っています。ついで松陰の外叔、久保五郎左衛門がその名を継承し、塾生の教育にあたりました。松下村塾は武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れました。同時期同地域にあった、藩校の明倫館は士分と認められた者しか入学できなかったので対照的な存在でした。1857年(安政4年)より、藩校明倫館の塾頭を務めていた吉田松陰が同塾を引き継ぎました。名簿は現存しませんが、塾生は約50名ほどいたと伝えられております。

29歳で刑死した松陰はじめ、本塾の塾生の多くが幕末の動乱期に若くして死んだそうです。また維新後にも多くの門下生が萩の乱に参加して刑死し、創設者の玉木文之進も責任を取る形で切腹死し、著名な門下生には、全国の倒幕の志士の総元締の役割を果たした久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、寺島忠三郎等、また藩論を倒幕にまとめ幕府軍を打ち破った高杉晋作がいました。高杉晋作、久坂玄瑞は、「識の高杉、才の久坂」と称され、「松下村塾の双璧」と呼ばれた。また、この2人に吉田稔麿を入れて松陰門下の三秀と言い、さらに入江九一を合わせて「松下村塾の四天王」と称されていました。
幕末を生き延びた伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、松本鼎、岡部富太郎、正木退蔵らは明治新政府で活躍した。その他の出身者には、前原一誠や飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎、時山直八、駒井政五郎、中村精男、玉木彦助、飯田正伯、杉山松助、久保清太郎、生田良佐、境二郎、宍戸璣(山県半蔵)らがいます。桂小五郎(後の木戸孝允)は塾生ではないものの、明倫館時代の松陰に兵学の教えを受けています。井上馨は、高杉・久坂らと関わりは深いものの松陰の教えを直接うけたことは無いそうです。 1858年(安政5年)、松陰が野山獄に再投獄され、また幕末動乱期に至って塾生の多くが地元を離れたため中絶した、慶応二年に再開し、馬島甫仙、河合惣太等が教授にあたり明治4年より再度玉木文之進が塾頭となり、塾舎として使われた玉木文之進の旧宅もまた、萩市内に保存されています。

萩の乱に前原一誠など元塾生の多数が参加し反乱の罪に問われたため、乱の鎮定後の1876年(明治9年)に責任を感じた玉木が切腹し、再度途絶。1880年(明治13年)頃に松陰の兄の杉民治が塾を再開した。1892年(明治25年)頃、杉が老年に至って閉塾しまた。

松下村塾の建物は?

萩市の松陰神社の境内には幕末当時の塾舎が現存します。建物は木造瓦葺き平屋建ての小舎で、当初からあった八畳と、十畳半の部分からなっています。十畳半は塾生が増えて手狭になったため、後から塾生の中谷正亮が設計し、松陰と塾生の共同作業で増築したものだそうです。

1889年(明治22年)、境二郎が往時の塾舎の保存を提案、品川弥二郎、山田顕義らが賛同して寄付金を募り、塾舎を屋根の漆喰塗りや壁の塗り直し等の若干の補修を行ったうえで保存したそうです。1922年(大正11年)10月12日、国の史跡に指定されたが、当時の山口県の調査資料では、幕末の建物がそのまま保たれていたことが記載されています。現在の管理団体は松陰神社となります。さらに、松下村塾をはじめとする「明治日本の産業革命遺産 萩の産業遺産群」が2015年に世界遺産に正式登録されました。

千光寺の「松下村塾」と「空海塾」

これから「SUPER☆star 空海の伝説を後世にいかに伝えるか?」をテーマとして「空海塾」の設立を準備していたのと平行し、全国勝手連の光永勇会長を当面塾長代行となっていただいて、全国の山伏、行者の有志の方々が学ぶ場として「松下村塾」設立のお手伝いをさせて頂いております。
この私塾を作るために、全国の山伏・行者の有志の方々が日夜奮闘されています。
白浜千光寺の本堂の法話室(小さな寺務所)は、そのための場としてご提供させて頂いております。

千光寺について

千光寺について一覧