空海に導かれた玄津
空海に導かれた玄津
〜僧侶と事業家の二つの道を歩む〜
高野山真言宗千光寺派 兵庫県『霊峰雪彦山 千光寺総本山』
管長(代表役員)上野玄津
私が、仏門に入ることになった御縁は、二十一歳の時です。当時、会社を興したばかりで、無理を承知で寝る時間さえ割いて頑張っておりました。その過労が積み重なったゆえと思いますが、病院での治療も効かないほど、幼少からのひどい喘息に悩まされておりました。
そんなある日、大阪府吹田にある垂水神社にお参りしました。幼い頃、境内の細い横道を祖母に手を引かれてお不動さんにお参りしたことがありますが、その時に祖母の真似をして手を合わせた不動明王さまが、格子戸の中で憤怒のお姿で仁王立ちされておられました。
近づいてご尊顔を眺めながら手を合わせておりましたが、ふと傍を見ると真言「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン」が書かれています。その意味は分かりませんがとても有り難い呪文のように思え、声を出して唱えてみました。
なぜか心地よくて、不動明王の御慈悲を授かっているような気持ちになり、いつしか、夢中で何度も御真言を唱えながら不動明王にお祈りを捧げていました。
しばらくすると、全身が何かに共鳴して震え始めました。不動明王の霊力に私の身体が反応して、霊感が心の奥底から沸き上がるような不思議な感覚が全身を覆ったのです。私は、初めての感覚に戸惑いを覚えながらも、若くして独立した為か迷いや苦しみで一杯だった頭の中が空っぽになり、とても爽快な気分になっていました。
不思議な体験をした参拝の帰り道、私は、先ほどまで苦しかった咳が止まっていることに気づき、もしかすると不動明王のお力で喘息が治まったのではと思わず足を止めて後ろを振り向き、不動明王が鎮座されておられる方向に向かって手を合わせさせていただきました。
これが私にとって空海の真言密教との初めての出会いです。そして、仏道を歩むきっかけになる出来事だったのです。
以来、多忙な事業の合間を縫って、夢中で空海の真言密教の教えを学び、在家の修行者として修行を積む日々が続きました。空海により大成された真言密教の真髄を学び、その教えを世界中に広めることこそ私に与えられた使命であると心に刻んだのです。
その様子が、どのように伝わったのか分かりませんが、一九八五年のある日、高野山金剛峯寺から招聘があり、高野山真言宗第四〇八世管長並びに総本山金剛峯寺座主の竹内崇峯大僧正にお会いする機会を得ることになりました。そして、「あなたは実業の世界で頑張りながら、あなたのやり方で真言密教を学び、そして若い人達に教えを広めなさい」と諭され、竹内崇峯管長猊下より、僧名「玄津」を授かりました。私が二十八歳の時の事です。
その後、御縁があり、元禄十年(三百年前)に彌栄(やえ)上人が弘法大師の霊指を受けて、摂津の国(現・神戸市)にて開山された伝統ある千光寺総本山の責任役員に就任いたしました。千光寺総本山は、平成七年一月十七日に起きた阪神・淡路大震災により被災寺院となりましたが、多くの信者の方々や有識者のご支援により、平成九年に兵庫県霊峰・雪彦山の麗にて再興することができました。
平成九年の本堂を移転の後、千年以上の歴史もあり、万葉集や日本書紀にも紹介された日本三大古湯のひとつ、空海伝説の白浜温泉・水晶山(当地)にて、若い人々にも「空海」の教えを広めるべく、平成29年10月に千光寺・別院を「空海の立体曼荼羅の世界観」として境内を整備して現在の活動となる。
以来、私は千光寺総本山の管長に就任して、宗教活動の範囲を広げることができ、朝鮮半島の平和実現を願い「世界人類平和祈願の鐘」を建立する活動や、中国やチベット、タイなどの僧侶との交流活動を精力的に行うなど、竹内崇峯管長猊下のお言葉に従い、普通のお寺の僧侶としての枠にはまらない「玄津のやり方」で真言密教の布教活動に努めてまいりました。
ただ、私にはいつも頭から離れない一つの課題がありました。その課題に取り組むことこそ、私に与えられた役割であり修行であると思う事がありました。
真言密教は、弘法大師空海により日本において大成されました。衆生を救済し幸せにする教えは、やがて日本中に広まっていきます。しかし、衆生救済とは日本人だけではなく人類すべてを救済することを意味します。私は、あらゆる国の人々に弘法大師空海の教えを広めていくべきではと、長年、その方法を考え続けてきました。その課題を成し遂げるためには、今までのお寺の常識を越えなければ無理だと分かっていましたが、その良い発想が浮かばず今日に至っておりました。
しかし、これも空海のお導きで、素晴らしい機会を得ることができました。
平成二十九年十月の事です。国際的に知名度があり外国人観光客が訪れる南紀白浜にあるお寺を継承し、霊峰・雪彦山の千光寺総本山の別院として「洗心不動尊白浜千光寺」を新たに創設することができたのです。
写真右:釈 泰然会長(曹渓宗普賢寺管長) 写真中央:故水谷幸正学長 写真左:玄津管長
朝鮮半島の南北の境界37度線上に世界一大きな「世界人類平和祈願の鐘」を建立する活動を、在日本韓民族仏教徒総連合会の釈 泰然会長と玄津が一緒にお勤めさせて頂きましたことを、学校法人東海学園理事長、佛教大学元学長、学校法人佛教教育学園元理事長、浄土宗元宗務総長など兼任されながら、アジア各国との民間交流を行ない、中でも日朝友好親善活動に多大な貢献をされた、故水谷幸正学長の御自宅まで報告にあがりました。
当寺院には、人々の迷う心を洗心してくれる不動明王と、現世御利益を叶えてくれる観音菩薩十二尊が安置されております。そして、あの震災で崩壊した千光寺総本山の瓦礫の下から奇跡的に姿を現された空海像を、雪彦山の本堂から南紀白浜の千光寺に移し、「空海のお寺」として人々の拠り所にすることができました。
私は、白浜千光寺を「国際観光寺」として、白浜を訪れる国内外の全ての人々に開放しております。お寺に興味の無かった若い人々も、日本観光に来られた諸外国の方々も、気軽に千光寺を訪れて空海の教えに触れていただき、真言密教に興味を持っていただきたいのです。いわば真言密教のPR寺として役割を果たしていくことで、真言密教を世界に広める一助になればと願っております。
因みに、PRという言葉はキリスト教の布教方法が語源だと聞いたことがあります。キリスト教が世界に広がったのはPR方法のおかげと思えば、日本仏教も布教活動のあり方にもっと創意工夫が必要ではないでしょうか。
写真集もそのPR方法の一つとして発刊したものです。お寺らしくない刊行物にしたのも、英語や中国語で翻訳したのも、白浜を訪れる全ての人々に「空海」を知っていただき興味を抱いていただきたいからです。
そして、地元白浜温泉の人々の幸福に寄与できるお寺にしていきたいのです。これまでのお寺の常識から外れた活動なので違和感を持たれる方もおられると思いますが、仏教には「世界平和」の教えを広めていく勤めがございます。
私は「新発想」で、新しい時代の真言密教の布教のあり方を模索し、願望を達成する為に必要となる、新しいお寺の役割を見い出し、空海の真言密教の加持祈祷(護摩行)により、仏教の奥義により人々の幸福を願って、さまざまな布教PR活動を模索しながらチャレンジしていきたいと意を新たにしております。
チベット仏教ゲルク派の最上位クラスに位置する法王
ダライ・ラマ14 世より、世界平和や密教の布教活動の功績を認められ感謝状を賜る。
イギリスのケンブリッジ由来の永い伝統を誇る
アメリカ「国際学士院大学」博士号のディプロマを拝受
世界の平和活動に貢献したことにより
2018 年6 月、世界宗教連合会副法王に任命される。
高野山真言宗 四〇八代目管長猊下より僧名「玄津」を授かる
写真左:玄津管長 写真右:高野山真言宗 第四〇八代目・竹内祟峰大僧正管長猊下
竹内管長猊下は、私が拝謁させて頂いた当時は、「高野山 真言宗管長」並びに「総本山金剛峰寺座主」でした。その竹内崇峰管長猊下の御使いとして、突然に、私を訪ねて来た僧侶(昇道師匠)より、「君は、誕生日が、2月21日ですね。即ち佛縁により、空海の生まれ代わりです」と告げられました。そして、高野山の金剛峯寺に上りなさいと連れられ、高野山を訪れました。
その折り、竹内管長猊下に拝謁させて頂き、「貴方は、若い人々に『真言密教』を貴方のやり方で広めなさい」とお言葉を頂戴いたしました。そして、「ただ、貴方はすぐに僧侶にならなくても良いですよ、何故なら、貴方はビジネス界で死ぬほどに苦労します。つまり、それが密教の苦行となります。貴方は貴方の好きなように生きなさい」と諭されました。
その後、竹内管長猊下は、やおら後ろを振り向いて「濟世利民」の書を指さし、「この書の意味について考えるようになるまで成長した時に、貴方は『玄津』と名乗りなさい」と、僧名を授けて下さったのです。「玄」は天空、「津」は潤す。すなわち、「人々の幸福を実現するために、仏(空海)の教えを世の中に広めなさい」という意味です。
上の『書』は、空海より409代目の高野山真言宗の稲葉義猛管長猊下と
空海が生まれた、四国の善通寺派56世法主(当時)高吉清順管長猊下より賜りました。
教えを次世代へ
約300年の歴史を継承する「千光寺」は、新時代にふさわしい布教の在り方を模索し、弘法大師空海の教えを次世代に繋いでいく使命を抱いております。
そのため、南紀白浜の「千光寺別院」を旧来のお寺とはまったく異なるコンセプトでリニューアルいたしました。
何よりもまず、弘法大師空海に興味を抱いていただき、その教えに触れていただくことが大切と考え、白浜千光寺別院を「観光寺」にいたしました。白浜を訪れる外国人観光客が気楽に訪れることができるお寺、若い人々が興味を抱いてくれるお寺です。多くの方々の参詣をお待ち申し上げております。
千光寺総本山の御縁
写真左:玄津管長 写真中央:辯天宗 大森慈祥管長猊下 写真右:千光寺 二見昇道 相談役
上は、辯天宗の大森慈祥管長猊下、及び法城王寺の二見昇道山主(当時)にお目にかからせていただいた時の写真です。
辯天宗は、あらゆる神仏の御誓願をすべておまとめの総祖神である「大辯才天女尊」を御本尊と仰ぎ、宗祖智辯尊女の教えを世に広められておられます。高校野球で名高い智辯学園の母体は辨天宗です。また、日本船舶振興会の故笹川良一会長や松下電器産業株式会社創業者、故松下幸之助さんが信徒総代をされていたことでも有名です。
世を救い人々を幸せにする宗教の役割について語り合いました。
今から三百年前に彌栄上人が発願された千光寺にて、私・玄津は仏門に入り修行を続けておりましたが、平成七年一月十七日に起きた阪神淡路大震災により寺院は崩壊してしまいました。
世の中を照らし、庶民を照らし続けてきた「法灯」を消してはならない。そう決意して兵庫県・霊峰雪彦山の麓にて、千光寺総本山の再興に取り組みました。僧侶としての最初の大仕事でした。
以来、先代の勧めもあり、千光寺総本山の管長となり仏教界をリードする国内外の高僧との御縁や、様々な分野で活躍されている先生方との御縁を得て、世界平和に果たす宗教のあり方を学ばせていただきました。そして、お寺の外に出て、世の中に貢献し、弘法大師空海の教えを世界に広めることこそ、私に課せられた僧侶としての勤めであると考えるようになりました。
それから二十数年後の今日、宗教活動の舞台を「南紀白浜・千光寺別院」に移して、世界の平和と人々の幸福を祈願しております。弘法大師空海の教えを広めるため、三百年の間、灯し続けた千光寺の「法灯」を未来永劫に輝かせていきたい。それが僧侶・玄津の修行であり、願いでもあります。
玄津の悟りへの道
▶︎1961年 | 2月21日、沖縄県浦添市生まれ |
▶︎1966年 | 父が米軍で働いていた事もあり友人はアメリカ人ばかりで、言葉が分からなくてもテレパシーで遊んでいた。 |
▶︎1968年 | 友人の発話障害の子供といつも無言で会話していた。 |
▶︎1971年 | 物事が映画のように見える特殊能力の持ち主であると沖縄のユタ(霊能者)に指摘される。 |
▶︎1985年 | 大阪吹田垂水神社・垂水不動尊で密教の法力を体験。以来、「空海」の真言密教の修行を行う。 |
▶︎1994年 | 2月21日、高野山真言宗第408世管長並びに竹内崇峯大僧正より僧名「玄津」を賜る。 |
▶︎1995年 | 真言密教を兵庫県姫路成田山明勝寺にて、中院流・四度加行を割行により出家得度を受ける。 |
▶︎1995年 | 1月17日、阪神淡路大震災。千光寺総本山が被災寺院となる。 |
▶︎1997年 | 3月21日、姫路成田山明勝寺にて僧階「権律師」教師資格を賜る。 |
▶︎1997年 | 兵庫県霊峰・雪彦山の麓に千光寺総本山本堂を再興し、管長に就任。 |
▶︎1997年 | 「世界人類平和祈願の鐘」建立推進委員会事務総長として活動。 |
▶︎1999年 | 12月8日、伊勢神宮・櫛玉宮祭主・石田かつえ先生より、奉安されていた真正「仏舎利」を賜る。 |
▶︎2001年 | 11月1日、僧階「権大僧都」を賜る。 |
▶︎2007年 | 2月21日、僧階「阿闍梨」を賜る。 |
▶︎2008年 | 3月21日、社会文化功労賞と勲章を賜る。 |
▶︎2017年 | 7月、アメリカ国際学士院(I.A.E.U )大学(カルフォルニア州ロサンゼルス)より宗教哲学博士号を受け客員教授となる。 |
▶︎2017年 | 11月、南紀白浜町にて「千光寺白浜別院」を再興に着手し、護摩行を執り行う。 |
▶︎2018年 | 5月22日、世界平和と白浜の祈願のため大柴灯護摩法要を執り行う。 |
▶︎2018年 | 6月、世界宗教連合会の副法王に任命される。 |